「遊び心」をみつける京都の旅、初日の2件めは石庭の龍安寺です。
時期は4月中旬です。
ブログの更新が遅れ遅れになってしまってずいぶん
感覚がずれていますが、きれいな桜から始まりです。
いい時期に来ました。
桜がきれいです。
桜の写真を撮っている。
さくらの様なうちの妻です。
ときに・・・こうなります。(下写真)
いつも・・・いや・・たまに・・・。
「・・・・・」
桜の鏡容池です。
秋の紅葉もすばらいとの事ですが
サクラもおみごとでした。
四季折々を考え作られています。
さて、枯山水の石庭です。
中央のしだれ桜がモノトーンの庭に色を添えています。
狭い空間を広く見せる工夫や強固に作られた油土塀
見る人の創造をかき立てる大小15の石の配置。
庭石の配置や大きさについては、色々な説があるようですが
「作者の意図は今や不明」と龍安寺のサイトに書いてあります。
ますます。興味がわきますね。
いい感じに「あじ」がでている木戸と引手
方丈内には襖絵が描かれています
仏殿に行く回廊にも妻・・・いや、鬼瓦。
知足の蹲踞(つくばい)
茶室に入る前に手や口を清めるための手水を張っておく石の事で
四角に彫られた中央の口を4文字で1字づつ使い「吾唯知足」と書かれている。
意味は「われ、ただ足るを知る」と読むようで
「不満に思わず満足する心を持ちなさい」との事です。
これが先ほどの石庭の石が「一度に14個しか見ることができない」ことに
対する戒めでもあるといわれる。とウィキペディア読みましたが
昔の人は創造力に長け大きな「遊び心」をきっと命がけで
やっていたのかとちょっと感動さえもおぼえます。
空間すべてに意味があり、気が付かない客人はそれなりに
気が付く客人にはそのように対応していたのでしょうか。
私がいうのもおこがましいですが
現代の人は、知識は別(私も無知ですが)としても
「気が付く心」も「感じる事」もずいぶん薄れて来ている様な気がします。
現代社会の中で一生懸命に走りすぎているせいでしょうか。
これもきっと「知足の蹲踞」の意味に帰するかもしれませんね。
今を見越していたのか、いつの時代もそうだったのか解りませんが
そんな気がしてなりません。
この蹲踞(つくばい)の本物は北東隅の蔵六庵という茶室の脇に
あると聞きますが非公開で見ることができませんでした。
「侘助椿」
となりには日本最古と書いてありました。
きっと茶花として茶室に生けていたのでしょう。
今日はこれで終わりです。
この後は、まだ3分咲きの桜の仁和寺に続きます。
では、また。
最後までお付き合いいただきましてありがとうございます。
次回もお楽しみに。。